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夏休み直前 前略 受験生保護者様

夏休み直前 前略 受験生保護者様



「夏休みくらい勉強を忘れて伸び伸び過ごせばいいじゃないか!」

したり顔の教育評論家やワイドショーのコメンテーターなる無責任な立場の大人達からしばしば聞かれる台詞(せりふ)です。彼らは言います。

今日の記事はめちゃくちゃ長いです。
なぜなら我々大人が子供のために絶対に認識しておかなければならない話だからです。

「この世には勉強よりも大切なことがある」と。

夏休みに勉強をしない方がいい理由の脆弱性

そして、「友達と友情を育むこと」とか「自然と触れ合うこと」をその例として挙げたりするのですが、そう言われると多くの人は感化され、「確かにそうだ」と何となく思ってしまいます。

さて、彼等に問いましょう。
「勉強」「友情」「自然」…これらは同じ価値観の元に並べて優先順位を付けるべきものでしょうか?優劣を評すべき概念でしょうか?

その疑問を投じた瞬間、彼らの主張の根底にあるものがいかに脆弱で軽薄なものかが知れます。子供たちにとってはどれも大切なものであり、軽重比較をもって順位付けすべきものではありません。

少なくとも、「友情」「自然」の大切さが「夏休みに勉強をしない方がいい理由」になり得ないのは明らかです。

耳障りのよい、反論しにくい意見は時として意味をなさないことを知るべきです。

言ってみれば当たり前の話に意味はない




学校現場でしばしば聞かれる「命の尊さを教える教育」「人権の大切さを教える教育」等の台詞がその代表でしょう。こうした美辞麗句は反論の余地がない。

言ってみれば当たり前のことであり、それゆえ実効性のない空文になってしまう。「命の尊さを教えましょう」と言われて、いったい何ができるでしょう。本来、教育現場で必要なものは、実行可能な具体論です。

家庭教育の現場で必要なものは、実行可能な具体論

例えば…「命の尊さを教えるために、カエルの解剖を復活させよう」という意見です。

我々は幼い頃、小動物に対して至極残酷なことを平気でやったものです。

しかし、だからこそ自我意識が成長した後、後悔の念と共に死を「実存」と意識する。
魚は生きたまま魚屋から台所に運ばれ、母親の手によって捌(さば)かれた。

また、祖父母の最期を自宅で看取ることも普通だった。つまり、日常の中に「死」が共存し、そうした中で子供たちは自然と「命の尊さ」を学んだのです。

ならば、当時は理科の必須であった「フナの解剖」や「カエルの解剖」を復活させるべきだという主張があってもいい。

きっと、動物愛護団体なる博愛主義者から反論が来るでしょう。しかし、そうした反論の余地がある提案しか実行性は無く、議論も前進しないのです。

いじめ問題に対して美辞麗句が飛び交う学校現場では何の解決もされていない現状が、それを証明しています。

子供の成長には何の貢献もしない文科省の主張

冒頭の「夏休みくらい・・・.」の意見も耳障りは良く、万人受けするかもしれませんが、同様に何の前進も…少なくとも子供の成長には何の貢献もしない主張です。賢明な保護者は、こうした美辞に惑わされてはいけない。

平成十八年に改正された教育基本法では、その第一章で教育の目的を次のように掲げています。

(教育の目的)

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた、心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

見事な美文です。と、同時に全く意味が分からない。かつて流行った「言語明瞭、意味不明」の代表例と言ってもいいでしょう。まず、「人格の完成」とは何か。その完成形の姿が全く見えない。

見えないものを目指すのは不可能

見えないものを目指すのは不可能です。同様に、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」が何かも分からない。分からないものは備えようがない。前述した「反論の余地が無い抽象文」の典型です。

もっとも、「目的」という抽象的な概念の説明ですから、自ずと表現には限界があることは理解できます。そこで、基本法には「その目的を実現するため」の目標が掲げられています。それはそれで周到なのですが、この「目標」がまた、問題なのです。

(教育の目標)

1. 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。

2. 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

3. 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

4. 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。

5. 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

もう、美辞麗句てんこ盛りの文章が並んでいます。形式上5項にまとめられていますが、例えば第一項だけを見ても、「幅広い知識と教養を身に付ける」「真理を求める態度を養う」「豊かな情操と道徳心を培う」「健やかな身体を養う」と、4つの内容が掲げられている。

第4項を除いて「~とともに」の言葉を使い、数えると二十の「目的」が5つの文章中に無理やり押し込められている。子供たちがこんな感想文を書けば、合格点はもらえないのではないでしょうか。

正に、「お役人文章」の典型です。そして、最大の問題点は、この文章の筆者(文科省)が目的と目標の意味を分かっていないことにあります。

部活動を例に採ると分かりやすい。例えば、野球部に参加する「目的」は、体力の増強であり、野球技能の向上であり、チームワークを学ぶ(友情を育む)ことに異論は無いでしょう。

これは「理念」であり、努力規定(普遍的に追い求めるもの)です。

それに対して、目標とはチームとしての「県大会優勝」や、個人的には「打率三割」という数字で表せるものでなければならない。

つまり、目標とは目的に対して正しい方向に進んでいるかどうかを判断するための指針として、また、その行為を維持させるモチベーションとして存在するのです。当然、数値で測れるものでなければ、目標の意味をなさない。

打率三割を達成して初めて、野球の技能が向上したと判断できるのであり、打率三割という「数値目標」があるからこそ、技能向上のモチベーションが保たれるのです。

目的と目標は、そうした相関関係にある。勉強の目的は「学力の向上」であり、それを達成するための目標として点数や順位、そして志望校合格があります。

こうして考えてみると、教育基本法に掲げられている「目標」は、すべて「目的」に類する内容であり、そこには「目標」がすっかり欠落していることが分かります。

「生きる力」

同様のことは、近年盛んに使われる「生きる力」にも指摘できます。新学習指導要領には「生きる力」の説明として、次のことが書かれています。

1. 基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力

2. 自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性

3. たくましく生きるための健康や体力

お役人が作る文章は全て同類です。抽象的美辞麗句をパズルのように組み合わせ、どこからも批判を浴びないことを「目的」として作られている。

その意味では十分に優秀なのでしょう。しかし、賢明な保護者は、こうした美文に惑わされてはいけない。

目標を持たない目的は単なるスローガンであり、けっして実現できないと知るべきです。

さて、人は確かに「生きる力」が必要であり、それを身に付けていく過程が「成長」であることに異論はないでしょう。必要なことは、「生きる力」の具体的な姿を提示することです。

私にはそれは明らかだと思われます。

概念的に言えば「社会に貢献するカ」であり、抽象的に言えば「社会で秀(ひい)でた能力」です。具体的に例を挙げるとこうです。

医者は、我々が持っていない「病気を治す能力」によって社会貢献をしている。
イチローは我々が持っていない「野球の能力」によって社会貢献している。
浜崎あゆみは我々の持っていない…

つまり、どんな分野でも構いませんが、一般の人が持っていない能力によって社会貢献できることが「生きる力」であり、それを習得する過程が「成長」なのです。

子供たちは正に、この「生きるカ」を習得すべく成長過程の真っ只中にいる。そして、その習得手段の代表が「勉強」なのです。

夏休みという40日間、その成長努力を放棄することが本当に有効なのか?

冒頭の議論に戻りましょう。生きる力を身に付けるべく成長過程にある子供たちが、夏休みという40日間、その成長努力を放棄することが本当に有効でしょうか。我々大人と子供たちの「時間」は同じ速度ではない。

誰もが大人になってからのほうが1年を短く感じているはずですが、それは錯覚ではない。40歳の人の一年は人生の40分の1だが、6歳の子供には人生の6分の1です。当然、子供たちにとっての40日間は我々の40日間とは比較にならない重みを有しています。

何かを成すには充分な時間




無駄に過ごせば「あっ」と言う間かもしれませんが、何かを成すには充分な時間です。この時間の過ごし方が子供の人生を大きく左右することを全ての大人は自覚しなければならない。気楽に「勉強なんか…」と言うことは許されません。

では、この40日間を子供たちはどう過ごすべきでしょうか。私は忙しい日々を子供たちに過ごしてほしいと願っています。

かつて「ゆとりの教育」が導入され、土曜日が完全休日になった時のアンケート調査結果があります。土曜日の午前中に何をしているかという問いに対して、子供たちの最も多かった回答は「寝ている」でした。

それを伝える新聞記事には「このように今の子供たちは疲れている」旨の解説が加えられていましたが、その調査結果と解説に違和感を持ったのは私一人ではないでしょう。

ゆとりとは

もともと「ゆとり」とは何か。けっして、何もすることがない時間のことではない。本来の「ゆとり」とは、やりたいこと、やらねばならないことを、とことん出来る時間のことです。

子供とは、やりたいこと、やらねばならないことがいっぱいで、どれだけ時間があっても足りないという時代を生きているはずです。また、そうでなければならないと思います。

それが「やることもなく寝ている」というのでは、それこそ文科省が金科玉条のように訴えている「生きる力」の減退そのものを示しているように思えてなりません。そんな空虚な時間を子供たちには過ごしてほしくない。

やりたいこと、やるべきことが満載で、とても40日では足りないという夏休みにしてほしい。それでこそ、充実した時間を過ごしたと言えるのではないでしょうか。夏休みに限らず、そうした日々が子供たちを「成長」させるのだと確信しています。

勉強は子供たちが成長するために必要不可欠な習得手段

前述のように、勉強は子供たちが成長する(生きる力を身に付ける)ために必要不可欠な習得手段です。せっかくの夏休みに、これを放棄することは絶対に避けなければなりません。それは成長を放棄することに等しい。

勉強とは訓練の一つ

当然、勉強とは訓練の一つである以上、子供たちにとって辛くつまらない作業でしょう。また、そうでなければ真の能力は身に付かない。それは勉強に限らず、スポーツでも芸術でも同じです。そこに、我々大人の役割も存在します。

辛いことから逃避しがちになることは人の常です。子供ならば尚更です。その時、我々大人が道を示し、励まし、支えることが必要となります。いわゆる「愛情ある強制力」です。

子供から嫌われたくない大人たち




ややもすると近年の大人は子供におもねり、嫌われないように気を遣う。機嫌を損ねることを恐れ、腫れ物に触るように扱う。本当にそれが子供たちのためでしょうか。

名古屋のある塾長が言った台詞が忘れられません。「どうしても真意の伝わらない塾生に対して、最後の手段として破門宣告をしても構わない。

それで恨まれてもいいじゃないか。そのことで、塾を見返してやろうと発奮し、彼の人生が変わるのならば、それは教育者としての本望である。」

今、これほど強烈な覚悟を持って子供と向かい合っている教育者がどれほどいるでしょう。

今、私や保護者をはじめとする大人たちに求められているのは、この「覚悟」なのです。少なくとも我々塾人は同じ覚悟で教壇に立っています。塾・予備校の存在意義は、そうした覚悟が支えています。だからこそ多くの子供たちの人生が塾現場で変わるのです。

一つの例を挙げましょう。

その少女は中学3年生の6月の模擬テストの結果は、5科目で偏差値48でした。おまけに不登校という状態でした。彼女にとって偏差値48は満足行く結果ではありませんでした。しかし保護者は学校にも行っていないのに塾に行く必要など無いと言っていました。

だが、彼女が通っていた塾の講師は大きな危機感を感じていたのです。このままでは彼女は努力をする機会を失ってしまうかもしれない。そこで講師は渋る保護者を説き伏せ、夏期講習を受講してもらいました。

社会を徹底的に訓練したのです。その甲斐あって、少女は休み明けの実力テストで社会は満点を取りました。彼女にとっては人生初めての満点でした。そのことが自信となり、その後、他教科の成績も伸び…今、彼女は東大を卒業し女性キャリアとして今年の春から某中央官庁に務めています。

彼女の人生は確実に中学3年生の夏に変わったのです。人生が変わる瞬間とはドラマのようにドラスチックなことではなく、ありふれた日常の中に潜んでいるのです。

夏休みが近い。子供たちには数多くの「人生を変える瞬間」に遭遇してほしい。その瞬間が「成長」の瞬間であり、生きる力の尻尾を握り締める瞬間です。それは、けっしてテレビやゲーム、漫画の世界には存在しない。ましてや惰眠の中には…。

これ以上の言葉を費やすのは蛇足でしょう。後は賢明な保護者の判断にお任せすべきです。賢明な保護者たる資格はただひとつ。「ゆずり葉」の覚悟です。


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